●▲■ きた産業 メルマガ・ニューズ vol.206 ●▲■
発行日:2015年5月13日(水)
■アルコール飲料産業のためのクロスオーバー情報■

発行:きた産業株式会社 http://www.kitasangyo.com

 

------------------< 目 次 >------------------

 

●▲■ アメリカに於けるサケ醸造の歴史(その1) ●▲■

 ●■高峰譲吉は、
1892年、シカゴにサケ醸造所を開業する計画だった!
●■アメリカ初のサケ醸造所は
1901年バークレーのJapan Brewing Co.である!!
(1908年のホノルル日本酒醸造会社ではなく)

                 text = Richard Auffrey

 

ご紹介情報●1▲ 「北米のサケ醸造所と100年の歴史概観」
ご紹介情報●2▲ 「ロサンゼルス、サケ売り場レポート2014」
ご紹介情報●3▲ 「都市型の小規模醸造所・蒸留所」(サケ醸造所を含む)

 

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リチャード・オウフレイ氏が2015年4月21日にブログ上に発表した
「An Expanded History of Sake Brewing in the U.S.」
というレポートには、日本では知られていないと思われるアメリカにおける初期の
サケ醸造の情報が多く含まれている。そこで許可を得て、当社のメルマガに和訳を
掲載させていただくことになった。

リチャード・オウフレイ氏はアメリカ、マサチューセッツ州在住の弁護士。食やお
酒に詳しく、長年にわたり食やお酒のコラムを新聞や業界誌に寄稿している。サケ
(清酒)にも詳しく、ジョンゴントナーさん主催のSake Professionalの資格も
持っていて、サケに関する文を書いたり、また講習で教えることもあるそうだ。

文章のボリュームが多いので、メルマガではダイジェスト版を2回に分けて紹介し、
その後、全文をアーカイブに掲載する予定。英語の原文は以下。

http://passionatefoodie.blogspot.jp/2015/04/an-expanded-history-of-sake-brewing-in.html

 

 

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何年か前に初めてサンフランシスコに旅したとき、バークレーのTakara Sake USA,
Inc.‐タカラサケUSAのテースティングルームとサケミュージアムを訪問した。歴史
的なサケ醸造具の展示はとても興味深く、楽しい訪問だったが、その時は、バーク
レーがおそらくアメリカにおける最初のサケ醸造の場所である、などとは考えもしな
かった。

 

現在アメリカでは、14ほどのサケ醸造所が営業中、または開業準備中だが、もっとも
古い会社でも1970年代の開業である。しかし20世紀初期には、今とは異なる多くのサ
ケ醸造所が存在し、そして消えていった歴史がある。私は、この興味深い日本の酒類
の、アメリカにおける初期の醸造所について調べてみたいと思い立った。以下は、筆
者の調査した範囲のアメリカに於けるサケの歴史である。

 

●▲■ ●▲■ ●▲■ ハワイの日本人移民

 

サケが消費財としてアメリカに最初に登場する場所が、19世紀後半のハワイであると
いうのは多くの人が納得するところだろう。1840年代、製糖業がハワイの主要産業と
なったが、サトウキビの労働者不足が深刻だった。外来の病気の流行で、ハワイの人
口は1831年から1860年の30年間で半減する。
その労働力不足を打開するために1850年にMasters & Servants法(筆者と訳者によ
る追記:雇用者・使用人の関係を規定する法律で、19世紀に英国、米国、などで順次
採用された。ハワイの場合、この法律によってプランテーション農園が外国人を雇用
することができるようになった。雇用される側の日本人は厳しい規律に従わねばなら
ないものだった。)がハワイでも成立し、外国人労働者をサトウキビ農園で雇用する
ことが可能になった。

 

この法律に基づいて1852年に、最初にハワイにやってきたのは中国人だった。しかし
10年もしないうちにほとんどの中国人はこの契約労働に興味を失い離れていったの
で、ハワイは日本を含む他の国に可能性を求めた。
1868年、「元年者」と呼ばれる最初の日本人移民が英国船籍のSciotoサイオト号とい
う船でハワイ王国に渡った。明治元年のことである。ハワイ側は350人の労働者を要
請したが、実際には148人-成人男性140人、夫に同行した女性6人、10代の者2人
-しか応じる者がなかった。渡航費の自己負担はなく、3年契約で住居と食事のほ
か、月4ドルの報酬が支払われた。
(訳者注:日本の資料では153名、あるいは149名というものもある。)

 

元年者がハワイに行くとき、サケを持参したであろう事は想像に難くない。当時日本
では、サケは冠婚葬祭や家族の祝い事などに欠かせない飲み物だった。移民達が日本
の日常を維持するためにサケをもっていった事は間違えないと思う。しかし残念なが
ら、移民者の多くが農業の知識を持たなかったことに加え、ハワイでの過酷な扱いも
あって、日本政府は多くの苦情を受け、結果的にはこの移民は失敗に終わる。移民者
のうち40人は帰国することになった。

 

日本政府はそれ以降、1869~1884年に渡ってハワイへの移民を禁止した。1874年、の
ちに「メリー・モナーク」(陽気な君主)とあだ名されたカラカウアがハワイ王とな
り、1891年まで王として君臨する。1881年、カラカウア王は外交親善のために世界旅
行にでるのだが、そのなかで日本に10日間滞在、移民禁止の解除と両国関係の改善を
求めた。
その甲斐あって、のちに移民は再開、よりよい報酬、医療サービス、食事等にも結び
ついた。また、移民の職種の幅も拡がった。なお、カラカウアは、日本の天皇と握手
をした初めての外国の元首であることも特筆すべきである。彼は、天皇からの賜り品
として銀の酒器を受け取っている。カラカウアが、幾ばくかのサケもハワイに持ち
帰ったことも十分あり得るだろう。

 

1885年2月初旬、移民が解禁され、第一陣の943人-男性676人、女性159人、子供108
人-がサトウキビとパイナップルの農園で働くためにハワイに旅立った。(訳者注:
日本の資料では946名。) 彼らの到着は、ハワイにおけるサケの初めての公式記録
としても知られる。
カラカウア王は、ホノルルの移民入国審査所で歓迎の相撲大会を開催した。40人の移
民を東西に分けて1時間ほど相撲を取らせたそうだ。結果は東が勝ち、カラカウア王
は10樽(または10バレルか、米国式では1バレル=約119リットル)のサケを勝者に
贈ったという。10樽という量からして、勝者だけでなく、到着した移民全員に振る舞
われたのは間違えないと思う。ただ、カラカウア王がどこからどうやってこのサケを
入手したのかはわからない。

 

ほとんどの日本人移民は独身男性で、サケを飲むことは日常生活の一部だった。ま
た、過酷な農園労働と日本を懐かしむ気持ちにさいなまれる者たちにとっては特に、
アルコールは欠かせなかった。サケと博打は移民の気晴らしだった。その後、カリ
フォルニアやそれ以外の米国本土の都市への移民も始まったが、彼らもアメリカにサ
ケを持参したであろう事は想像に難くない。
そして日本がサケを輸出するようになるまでにはそう時間を要しなかった。たとえ
ば、菊正宗酒造は、1887年に英国にサケ輸出を開始、2年後には米国輸出を始めている。
ハワイとカリフォルニアでは、1890年までには輸入品としてサケが入手できるよう
になっていた。

 

●▲■ ●▲■ ●▲■ ハワイにおけるサケの関税

 

ハワイで非常に多くサケが飲まれるようになった結果、1896年3月、カリフォルニア
のワイン業界が、ハワイでサケと競争するのが困難だと抗議する事態となる。因みに
当時ハワイでもっともカリフォルニアワインを消費していたのは、ハワイに住むポル
トガル移民たちで、飲まれていたのは甘味ワインだった。カリフォルニアワインとサ
ケは同じ「ガロンあたり15セントの関税」を払っていた。
ところが、ワイン業界の意に反して「アルコール分14%以下はガロンあたり30セント、
14%以上は50セント」と改訂する提案がなされた。当時のカリフォルニアワインはほ
とんど酒精強化の甘味ワインでアルコール分20%程度だったので、税金は一気に3倍
になり、サケとの競争がますます困難になる。当然、カリフォルニアワイン業界はこ
の関税改訂に抗議し、阻止しようとした。

 

一旦はカリフォルニアワイン業界の抗議は実を結びそうになったものの、事態は急
変。ワインの税金はあがったまま、サケにはさらに高い関税がかかることになった。
サンフォード・ドール大統領(訳者注:当時、ハワイは王政が終わり、1898年にアメ
リカに併合されるまでの期間、ハワイ共和国となっていた。そのハワイ共和国の大統
領)の拒否権行使にもかかわらず、ハワイ議会は
An Act To Increase The Duty on Liquors, Still Wines, And Other Beverages Made From Materials Other Than Grape Juice
という法律を承認することになり(筆者と訳者の注:誤訳ではない。大統領拒否権を
議会が覆す権限を持つ場合もあり、この場合はそれにあたる。)、サケなどブドウ以外
から造るスティルワインは、アルコール分14%以下はガロンあたり60セント、14%
越えはガロンあたり1ドルとなった。

 

ブドウ以外原料の酒類を対象とするこの法律はサケ以外にも適用できるとは言え、明
らかにサケをターゲットにしたものだった。サケの関税は以前の4~7倍になった。こ
の法律が成立する過程では、サケには有毒なメチルアルコールが多く含まれる、ハワ
イ住民を守るためにも増税せよ、という申し立てがあったようだ。
しかし、この申し立てはその後立ち消えとなっていて、サケにかける高関税を正当化
するための根拠のない作り話だったように思われる。もしメチルの話が本当であれ
ば、関税改訂などでなく禁止措置が取られていたはずだから。

 

当時、日本人労働者の平均的稼ぎは月12~15ドルで、サケは滅多に買えない高嶺の花
になってしまった。このことは、サケ密造の要因にもなったと考えられる。日本の酒
造メーカーの中には抜け道を見いだす者もいた。菊正宗酒造は、この法律が日本から
ハワイに直接輸出した場合のみに適用される事、すなわちまずカリフォルニアに輸出
しその後はワイに運べば高率の関税を払わなくてもいいことに気づいていたようだ。
ただ、実際にそのようなルートでハワイにサケが運ばれた実績があるのかどうかは不
明である。

 

●▲■ ●▲■ ●▲■ 米本土におけるサケの関税

 

一方、ハワイでなく、米国本土でもサケの関税問題が取りざたされていた。1894年以
前、サケは「蒸留酒類似品」として扱われ、「プルーフガロン」(訳者注:アルコー
ル度数50%換算)あたり2.5ドルの関税を賦課していた。しかし、1894年7月、サケ
の輸入業者の申し立てで、「スティルワイン」のカテゴリーに変更される。
さらに、W.ニシヤマという別のサケ輸入業者が1903年にニューヨークの裁判所に申し
立てた結果、巡回裁判所がサケは「ワインでもビールでもなく従来リスト想定外の酒
類」だとして、関税が下げられる結果となった。

 

1904年11月、サンフランシスコのサケ輸入業者、T.Kodama & Co.は同じような申し立
てを行ない、政府に対し、サケの関税として支払われた50万ドルの返還を求める訴訟
を起こした。下級裁判所ではニューヨークの判例に従ったが、第9米国巡回控訴裁判
所は異なる意見で、サケは「ワインと同一カテゴリー」だとの見解をとった。1908年
12月、最高裁に上告され審理された結果、第9米国巡回控訴裁判所の判断が確定する
結果となる。
すなわち、「日本の飲料、サケは§ 297 of the Tariff Act of July 24, 1897, c.
ll,30 Stat. 151, 205のもとで、スティルワインと同様のものとして課税されるのが
適当であり、ビールと同様の課税にすべきではない」となった。

 

ほかにも色々な事情があったが、以上のようなサケ輸入の税率に関わる争いは、アメ
リカ国内でサケを造ろうという起業家を出現させる原動力となった。米国内でサケを
醸造したらより安上がりである事が明らかだったからである。
筆者は、アメリカ合衆国に於ける最初の正式許可を得たサケ醸造所が、考えられない
ような場所、シカゴに設立されようとしていたことを見いだして、大いに驚き、興味
をそそられた。普通ならハワイ、カリフォルニア、またはその他の西海岸と考えると
ころだが、シカゴとは驚きであった。それは、この意外な場所に関係した、ある日本
人の出自に由来する。

 

●▲■ ●▲■ ●▲■ 高峰譲吉のサケ醸造所計画、「タカミネ酒類醸造会社」

 

1883年、有名な日本の化学者、高峰譲吉は農商務省工務局に勤務していたが、日本酒
の醸造技術の改善に関心を持っていた。彼の出自、母方の実家は酒造業者であったの
で、彼がサケに興味があったのは自然な成り行きであろう。彼は麹が米のでんぷんを
糖化するメカニズムに関心を持っていたのだが、偶然、麹によって、米ならぬ小麦の
「ブラン」(?-ふすま、麦の粒ではなく、精白した後に廃物としてでる皮膜)の糖
化が出来ることを見いだした。そして、最終的にはどのような穀類も麹で糖化できる
手法を見いだした。これは、ウイスキー業者が用いるモルト(麦を発芽させて、その
酵素で糖化する)より、はるかに安価で早い方法であった。

 

1890年、高峰はシカゴにあったウイスキー蒸留原料を供給するコングロマリット企業
からの招聘を受け、米国で働くことになる。1891年、イリノイ州のピオリアという町
(訳者注:当時ウイスキー原酒をほぼ独占的に供給していた町。シカゴから南西
200km、現在は人口10万人強の米国の中都市)に居を構え、専用に設けられた試験醸
造所で麹による糖化の実証実験を行うかたわら、モルトに換わる麹の技術を売り物と
するTakamine Ferment Company(タカミネ・ファーメント社)を設立する。
しかしながら彼は、モルト製造業者らの徹底的な抵抗にあい、不審火による火事で試
験醸造所を焼失してしまう。その後、建物は再建され、幾ばくかの麹によるウイスキー
も試験製造されたが、実生産はされることはなく、この技術は日の目を見ずに終わっ
ている。

 

試験醸造所焼失にいたるモルト業者の抵抗は、高峰をして別の仕事の模索もさせてい
たのではないか。1892年4月のピッツバーグの新聞に「横浜のビジネスマン、タカミ
ネとシカゴ在住の日本人ビジネスマンたちが、シカゴにサケ醸造所を開業する計画を
持っている。社長はタカミネ、社名はTakamine Shurui Jozo Kaisha(タカミネ酒類
醸造会社)になる見込み」という記載を見つけた。その時点ですでに資金の半分は調
達できていたようだ。
しかし、残念な事に、理由は不明だがこの醸造所は実現しなかった。現時点で筆者は
これ以上の情報を見いだすことが出来ていないが、今後もこの会社については調べて
いきたい。

 

(訳者注:高峰譲吉のピオリアでの活動や「タカミネ・ファーメント社」について
は、多くの文献で紹介されているが、訳者の知る限り、清酒醸造を目的とした「タカ
ミネ酒類醸造会社」について言及している文献・資料はない。高峰はとても商才の
あった人物であること、渡米には丹波篠山出身の杜氏、藤木幸助を助手として連れて
行ったことなどから、この話は現実味がある。ただ、本稿の筆者、オウフレイ氏も、
なぜシカゴの新聞でなく、はるか東の都市、ピッツバーグの新聞にのみ掲載されてい
たのかが不思議であると語っている。)

 

●▲■ ●▲■ ●▲■ アメリカ初のサケ醸造所、Japan Brewing Co.

 

いくつかの文献で、アメリカで正式な許可を得て設立された最初のサケ醸造所はハワ
イ(訳者注:1908年設立、ホノルル日本酒醸造会社)だと書かれているが、これは正
しくない。実際にはカリフォルニアである。
1901年6月10日、Japan Brewing Co.(ジャパン・ブリューイング社、あるいは日本
醸造会社)という会社がサンフランシスコで登記されている。オーナーはH.ソエジマ
という人で、Japanese Association of America(アメリカ日本人会)の会長であっ
た人物である。会社の所在地はバークレー西部だが、
209 Battery Street, San Franciscoにも住所を持っていた。

 

バークレーの具体的な場所は、San Pablo AvenueとUniversity Av.の交差点(訳者
注:現在、タカラサケUSAがある場所から目と鼻の先)。それ以前の数年間はHofburg
Breweryというビール醸造所があった場所である。
このビール醸造所は2年間の調査の末、深さ65フィート(20m)ほどの井戸を2本掘っ
ているが、これが砂利層をとおった良質の水に達していた。サケづくりに良い水は欠
かせないので、この場所は優れた選択であっただろう。

 

建物の賃貸契約書にはイン・シノ(Yin Slno)という人物がサインをしており、月
150ドルで10年契約だった。彼らは醸造所で100人の雇用を行う計画だった。
しかし、誰もがこのサケ醸造所計画を歓迎したわけではない。1901年7月のロサン
ジェルスヘラルド紙はこの計画の中傷記事を短い社説として掲載している。この日本
人の会社を「背の低い男たちの集団」といい、サケを「forty-rodの名で知られるウ
イスキー-人を殺すほど強いといわれた-と同様、危険な成分を含む」、そして
「1杯で麻痺、1本で死に至る」と続けている。

 

1905年までに、この会社のサケ生産は年5万ガロン程度(=約180KL、約1,000石)に
達し、サケをハワイ、フィリピン、そして日本にも輸出していた。日本でこのサケが
飲まれていたとしたら、この会社のサケはある程度ちゃんとした品質であったのだろ
う。
このジャパン・ブリューイング社は1906年に閉鎖されようとした形跡もあるが、実際
には継続された。1906年1月の小さな新聞記事に、「200ドルのライセンス料を節約す
るためにソエジマは醸造所をサンフランシスコに移すことを希望している」、と書か
れている。その後、サンフランシスコではなく、1907年にバークレーのすぐ近くのエメ
リービルという街に移動したという資料がある。エメリービルに移動後もジャパン・
ブリューイング社は、何年かは存続した可能性があるが、さらに調査が必要である。

 

なぜ、ジャパン・ブリューイング社は閉鎖されたか? 理由は販売面の行き詰まりで
はないかもしれない。1907年11月、サケを醸造するための設備の購入代金、1,000ド
ルが未払いであるという訴訟が、ジャパン・ブリューイング社に対して起こされた。
これは大金で、会社を閉鎖に追い込むにたる金額である。
一方、のちにホノルル日本酒醸造の社長が、ジャパン・ブリューイング社の閉鎖は樽
に使った木材にあった、と語っていることも興味深い。ジャパン・ブリューイング社
は、日本伝統の杉樽ではなく、アメリカンオークの樽を使用していたが、それがサケ
の酒質に悪影響があったというもので、その主張は妥当かもしれない。

 

●▲■ ●▲■ ●▲■ その他のカリフォルニアのサケ醸造所

 

この頃、ジャパン・ブリューイング社の他に、カリフォルニアには複数のサケ醸造所
が存在した証拠がある。1903年、カリフォルニアにやってきたヤスハラ・キンゾウ
は、2年後、サンフランシスコのJackson Streetにサケ醸造所を開業し、これは
1917年ころまで存続している。
他に、1907年頃、ワトソンビル(サンフランシスコの南、サンノゼとモントレーのあ
いだ)に名称不詳のサケ醸造所が、またサンノゼには1916年、Nippon Sake Company
(日本酒会社)があった。場所はJackson St.とSeventh St.の角だった。1910年代半
ばまでには、Kawaguchi & Ida Sake Brewery(カワグチ・イダ・酒醸造所、または
Iida Sake Breweryイイダ・酒醸造所として知られる。筆者注:イダとイイダの両方の
資料がありどちらが正しいのか不明)が、サンノゼの665 North 5th Streetに存在した。
(訳者注:両社の住所とも、現在のサンノゼのジャパンタウン内に位置する。)
しかしながら、これらの醸造所についてはほとんど情報がない。
またこれら以外にもサケ醸造所があった可能性もある。

                                                   (以下、次号)

 

                                    text = Richard Auffrey
translation = Tsuneo Kita

 

 

 

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さて、情報紹介です。
今回はメルマガ本文に関係あるものを選びました。

 

 ご紹介情報●1▲「北米のサケ醸造所と100年の歴史概観」
http://www.kitasangyo.com/Archive/Data/Sake_US_history.pdf 

 

アメリカ合衆国のサケ製造者の現状と歴史。
なお、歴史の初期の部分は、
メルマガ本文のオウフレイ氏のリサーチが圧倒的に詳しい。

 

 

 ご紹介情報●2▲「ロサンゼルス、サケ売り場レポート2014」
http://www.kitasangyo.com/Archive/Data/LA_SAKE.pdf

昨年、LA在住のYukiさんに作ってもらった資料。
地元の方の視点で、
現在の西海岸サケ事情がとてもよくわかる資料です。

 

 

 ご紹介情報●3▲「都市型の小規模醸造所・蒸留所」(サケ醸造所を含む)
http://www.kitasangyo.com/Archive/Data/MicroSakeB_ed2.pdf 

メルマガ本文でオウフレイ氏は、
「現在アメリカでは、14ほどのサケ醸造所が営業中、または開業準備中」
と書いていますが、
14から月桂冠、宝、大関、ヤエガキ、サケワンの大手5社を引いた9つが
マイクロサケ醸造所になる計算。

昨年6月作成のこの資料にはアメリカのマイクロサケ醸造所として
6つしか記載されていませんが、
今年に入って1社が開業済み、
さらに2~3社が開業準備中のようです。

 

 

 

 

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